青年会議所に入会した私が、世の中にどう向き合い、心の月を立てるのか、考えを次に記したい。
新しい時代はあなたの一歩から
1990年代、華々しく飛躍する日本、数々の分野で世界のシェアを勝ち取っていく日本…。それは過去のものとなり、高度経済成長時代から大きく減速し、競争力や体力のある国家からその地位を落とし始めた。さらに追い打ちをかけるように化石燃料の燃焼などによる温室効果が影響する世界的な気候変動に代表されるように、地球環境そのものの持続可能性が今のままでは難しいとされ、重厚長大に象徴された大規模発展から、技術や生産活動にとどまらず、個人の生き方、思想や哲学、国家の枠組みさえも総動員して、替えのきかない地球環境に配慮する、責任の伴う成長を人類は模索していかなければならない時代となったのだ。
そして我が国だけではなく、世界的に混沌の時代にある現在、今を苦難の時代として位置付けて陽が沈むことを傍観者としてやり過ごすのか、それとも、陽はまた昇るかのように、真正面から解決すべき問題に向き合い、明日は必ずやってくると信じて、明日のために立ち上がるのか、青年と言われる私たちの姿勢が改めて問われている。

これは2000年代運動指針の結びに締めくくられた言葉だ。混沌を未知の「可能性」と捉え、確かな時代へと変えていくために、他人任せにせず、責任世代として自ら何ができるのか、社会をより良く変革しようという壮大な試みの前に、己を律することができるのか、我が国を世界の平和と安定に貢献しうる日本へと導くために、私たちが住むまちを我が国の発展に貢献しうるまちへと再生できるのか、それに相応しい市民であり、地域や社会の担い手であるのか。
私たちの歩んできた道を今一度、襟を正して検証し、次の行く先を指し示すときが来たのだ。もしも未来が見えないのならば、私たちがつくれば良い。時代を切り拓く青年として、私たちは次の10年というドアの前に立ち、まさにドアを開こうと手をかけようとしている。可能性溢れる近未来2020年を大いに描いてみようではないか。そして踏み出してみよう。私たちの目の前の一歩から、明日への全てが始まるのだ。あなたの一歩は世界の平和と安定に貢献しうる、そんな尊い一歩として「証し」を刻んでいくことであろう。それぞれの歩幅は違えど、私はあなたの尊き一歩に期待する。
明日の時代、世界の平和に貢献できる我が国日本を、私たち青年でつくろうではないか。
日本人のアドマイヤー精神
民主主義は進むべき道を国民が主権者となって統治を可能とする政治思想だ。集団が何かの決定をするとき、多数決は単に意思決定の手法に過ぎない。そこにはより多くの国民が主権者として参加し、さらには意見の異なる者同士が討論し、合意形成のプロセスが必要となる。そして最終的には挙手や投票という形で全体の意思決定がなされるわけだが、そもそも日本人は、国民性としてこのプロセスを非常に重視してきた歴史がある。我が国に古より伝わる十七条憲法に見られる「和を以って貴しと為す」とは、調和した結果が美しい、という意味だけでは不十分であろう。正確には「一に曰く、和(やはら)ぐを以て貴(たふと)しと為し、忤(さか)ふること無きを宗(むね)とせよ」さらに「人皆党(ひとみなたむら)あり、また達(さと)るもの少し。 是を以て、或いは君父(きみかぞ)に順(したが)はず、また隣里(さととなり)に違(たが)ふ。しかれども、上和(かみやわら)ぎ下睦(しもむつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)ふときは、すなわち事理(こと)おのずから通ふ。何事か成らざらむ」とされ、一つの決定案に対して、正しいと思う者もあれば間違いと思う者もあり、いがみ合うだけでなく、対立する双方に配慮し、睦まじく協力し合って統治に努めることが尊く、万事うまくいくであろうと、ジャッジの結果以降までをも戒めている。各々に主張があり正義が存在するのが世の常だ。プロセスや主張の相違にばかり目を向けず、互いの理性を以って共通の課題を探し出し、どうやって克服して多くの可能性を創出するのか、日本人のアドマイヤー精神といっても過言ではない。これこそ、私たちの民主主義の精神ではないだろうか。
この国の民主主義を昇華させる
2010年5月18日、憲法改正国民投票法が完全施行されるこの日は、戦後我が国が歩んできた民主主義国家としてのあり方を総括する節目の日となるかもしれない。高度経済成長を経て、世界の中で先進国の位置にある私たちの国、日本。国家としての現形を司る最高法規について、自主的に変えうる手続きが明らかになったのだ。これまで発展を遂げてきた我が国は、国民主権に基づく民主主義という名のもとに統治されてきた。世界の中の日本として外交や防衛、国民の文化的な生活と安定を守るための経済や福祉といった諸施策の骨格となるルールをどうするのか、いよいよ国民がその進路を決めなければならない選択の局面を迎えるわけだ。選択の自由を謳歌するのか、傍観し続けることを選ぶのか、この重大な選択にあたり、義務教育でも習う民主主義とは一体何なのか、無駄な機会にしないよう改めて考えてみたいと思うのは私だけだろうか。この社会の仕組みやルールを決める意思決定のプロセスを私たちは本当に理解しているのか、日本の国民として自らの反省に立って再考する時期に来ていると思う。
立憲主義国家としてのあるべき姿
これまで私たち国民は法に対して余りにも無頓着すぎた印象は否めない。法治国家としての原点にある憲法を議論するうえで考えなければならないのが、その性質であって、憲法が何のための最高法規なのか理解しなければならない。国民の生命と安全を守り、国家の安寧と発展を目指し、恒久的な世界の平和に貢献するための法ならば、現状認識を踏まえたうえで、互いに調和し、さらなる発展に結びつけていくためにどうあるべきか、自らの国家の最高法規を国民が選択することは、明日への扉を開き民主主義国家として昇華することへの第一歩なのではないかと思う。
例えば、我が国の防衛を含むPKOや有事法制などは、決して安定していない世界をたくましく生き抜いていくために現実に対応した結論かもしれない。しかしそれだけにとどまらず地域の自立や国民の義務と権利に代表されるように、国と地方、国家と国民という対峙する関係をどうするのか、今まで論ずることさえ許されなかった時代から論じなければならない時代に入ったのだ。こじつけのような合憲解釈を繰り返すのか、それとも国民の手で新しい憲法をつくるのか、その手続きは整い、起案作業と、私たちの選択を待つばかりとなったが、果たして主権者である私たち国民としての準備はどうだろうか。私が言いたいのは、改憲か護憲かという議論よりも前に、現在の我が国は国家形態が立憲主義に基づいていることを忘れてはならないということだ。多くの憲法議論において、各論各条の議論は大いにされ、政治的にも左右されてきた経緯はあるが、我が国は立憲主義である、という認識は護憲・改憲と言われる人々に確実に共通する概念なのだ。国家に権力を与えつつも濫用を防ぎ、国民の幸福や生命を護持させるために、国家そのものを法の支配によって統治するという立憲主義の上に立って改めて議論を始めよう。愛すべき国民が憲法議論によって我が国そのものにかかわるプロセスこそ社会への参加、まさに真の日本建国そのものなのだから。
選択の時代へ
我が国における国民の社会参加の現状に目を向ければ、政治への関心は近年象徴される低投票率のように、決して少なくない数の有権者が、議論に参加することもなく参政権を放棄した状態であった。また、現代社会において、政治に対してひとくくりに無関心層という無責任な国民の存在が許されること自体、この社会に巣くう魔物がいるとしか思えない。無関心が悪い、というよりも、関心はあるがどのように参加すべきなのか、どこへ参加すべきなのか、有権者への啓発が制度的にも不十分なため、よく分からないうちに無関心になっていった、と私は信じたい。近代日本の社会は、この無関心という得体のしれない病との闘いであり、私たちはどうやって社会参加の機会を増やし、どのようにこの社会にかかわっているかという実感を持たせるのか、という意欲を高めることから治療をはじめていかなければならない。これは、政治や行政といった制度だけで対応するものではなく、国民各層各所において、あらゆる機会の創出が豊富な状態でなければならず、私が考える民主主義とは、このような社会状態を若き青年層によって創出し、多くの国民が棄権せずに社会に意欲的に参加できるまで昇華させなければならないと考えている。2009年5月にスタートした裁判員制度など、国民は好むと好まざるにかかわらず社会から選択を強いられることになるだろう。我が国を俯瞰的に見れば、エネルギーの外的依存が高く、食料自給率は依然低いまま不安定な海路にしか供給を頼ることができず、さらに私たちの頭上をミサイルが飛んでも何もすることができないのだ。我が国が誇った工業生産と高い技術力はいつしか後発国に遅れをとり、勤勉であった国民性はニートに代表されるように空虚なものとなった。人々が将来への夢さえも描けなくなったこの国に、再び日本の未来をつくる旗手が必要であり、それは今を生きる青年の私たちしかいないのだ。選択の時代21世紀を生き抜き、未来をつくるのは今の私たちの選択そのものにかかっている。