国家政策と地方分権の本質的な課題
豪雪地帯に暮らす東北地区の仲間との対話が心に残っている。「私の郷土には素晴らしい自然や文化が残っているのに、都会に出た若者がこのまちに戻って来ないんです。どうしたらいいんでしょうか?」そんな切実な問いかけに対し、「諦めるな!頑張れ」と月並みな言葉しか口にできない自分がいた。
90 年代後半から進んだいわゆる平成の大合併により、1999 年3 月末に3,232 あった市町村の数が、2006 年4 月には1,820 にまで統合された。市町村合併は、地方行政における経済合理性だけを追求した結果、住民サービスも財政的な効率性ばかりに重点が置かれ、費用対効果が幅を利かせ、その地域に暮らす人々が生きていくために何が必要かという住民サービスの本質を見落としている気がしてならない。
現在、政財界を中心に、官僚が描いたシナリオ通りの流れに沿った道州制の議論が活発化している。しかし、その前に何かを忘れてはいないだろうか。我々国民は、市町村合併をどう総括したのか。先の市町村合併によって、自治体の財政基盤の安定が図れたというのは本当だろうか。過疎地域に暮らす住民に不安感はないだろうか。そこに暮らす住民の幸せという理念は存在していただろうか。そして何より、新しくできたまちに市民は夢や希望を抱いているのだろうか。
都市一極集中がますます進む中で、さらに加速して地域間格差は拡がりつつある現状を鑑みて、我々が今創りあげなければならないローカリズムとは、自律した「郷土愛」溢れる地域でなければならないし、その上で国益に寄与することのできるつよい地域社会であるべきだ。今一度、国家が地方に対して果たすべき役割を検証し、47 の地域が、これからの国家に対して貢献できる無限の可能性を信じて、自治権や裁量権も含め、国民が主体的に、自律した「諦めない地域」を創りあげるためにも、国家と地方制度のあり方を真剣に問う本質的な議論を喚起していかなければならない。国と地方、国民と政治、官僚と政治家などなど、お互いで負担と責任の押し付け合いばかりを繰り返すのはやめて、この国の明るい未来のために、危機的な現状を再認識し、それを打破するべく腹をくくった潔い判断が必要なのだ。
今後も、ローカルマニフェスト型公開討論会やマニフェスト検証大会をはじめ、数多くの市民との対話を通して、市民としてのJAYCEE が、自らの地域に主体者として関わり、諦めずに自らの郷土を作り上げることはもちろんのこと、時々の選択を将来にわたって不断に確認し続けることが求められているのだ。
「真日本建国」に向けて 〜国家と国民の関係〜
昭和64 年1 月、昭和天皇が崩御され、新天皇の即位に伴い、元号が「昭和」から「平成」へと移った。「平成」とは、中国の「史書」に謳われた言葉で「内平かにして、外成る。」すなわち、国も人間も、その内部が穏やかであれば、それは外に形となって現われるという意味である。これは日本人の幸福と社会、国際関係の平和的な安定を心から望まれた昭和天皇の御遺志であり、ときの指導者が求めた新しい時代の進むべき道を示したものだ。
「真日本建国」が目指す国家とは、「つよい」国民性に育まれた「やさしい」国家。真のやさしさを維持発展させるために、国民と国家がつよさを持ち合わせていなければならない。それが、やさしくあるためにつよくありたいと願うことである。
私が考える真の国家とは、聞こえのよい改革論ばかりを唱えて、すべてを大鉈で叩き切るだけの刺々しい政策ばかりを是とし、仮想敵国を仕立ててナショナリズムを煽ることで求心力を高めようとする軽はずみなものではない。国民が安心して暮らせる社会、努力が報われる、公平で希望溢れる真の民主国家を指すものである。その上で、一家の大黒柱である親父が愛情と使命感を持って当たり前のように必死に働き、子どもたちには夢と希望を、年老いた両親には安心して暮らせる生活を与える。そんな頼もしい国民が暮らす地域に対して、国家は格差のない教育や、安定したユニバーサルサービスを提供し続け、無駄なく富の再分配を行なう。しかし、このやさしさは、弱きもののやさしさであってはならない。つよさに裏打ちされたやさしさであってはじめて、貢献できる力に変わるのである。国家国民のためにあるべきはずの政党や政治も、党利党略あるいは利権や既得権ばかりが目に付く哀れな指導者の存在により、官僚支配から脱却できない悲しい現状を招く結果に繋がっているのだろうし、それはまぎれもなく我々有権者の民度を示す鏡だと考えなければならない。政局も大きな転換期を迎えている今、我々は主権者として、自己責任を以て政治選択をしなければならないのではないか。
2000 年代に入ってから、政府は「三位一体改革」を掲げてあらゆる分野において構造改革を推進してきた。このままでは、人口減少と少子高齢化が進み、我が国の生産年齢人口の減少によって国家財政はもたないという課題には共感するし、国と地方が抱えている約800 兆円もの債務に鑑みても、今後も更なる改革の必要性は感じているのだが、中途半端に終えてしまった道路公団民営化問題をはじめ、セーフティーネットまで破壊してしまった郵政民営化問題や、先の見えない年金問題や医療制度の崩壊に至るまで、我々国民一人一人がそれぞれの問題の本質をどこまで我がこととして認識しているのだろうか。言論の府であるべき国会で、与野党間のねじれ現象が生じた結果、それぞれがすべて党利を判断基準として政局へと持ち込み、国民の生活や国家の立ち位置を最優先に考えなければならない法案審議も、結果的に数の力だけで押し通すという無責任な状態にまで陥っている。これまで長く続いた官僚支配を改革するべく制定された「公務員制度改革基本法」が、2008年6 月の参議院本会議で無事可決された。大きな政府から小さな政府へと舵をきれないままに停滞していた地方分権への流れや、約12 兆円もの血税が天下り先へ垂れ流されている現状を打破するためにも、官僚主導から民意を汲んだ政治主導へと変えていかなければならない。すべての決断には「光と影」が存在し、その決断を下すときには得るものもあれば失うものも存在するのだ。ここで、近年の改革を再度検証して“そもそもの課題”と“現状の問題”の本質を我々有権者がしっかりと認識して、国益に基づき正しい選択をしなければならないだろう。
自主憲法制定に向けて
2010 年以降に発議される憲法改正に向けた「国民投票法」が2007 年に成立した。このままでは有権者が国家のなんたるかを意識することもなく、十分な情報も適切な議論を展開する機会もないまま審判を委ねられることにもなりかねず、大きな不安を禁じ得ない。憲法の問題を考えるにあたっては、改めて国家と国民の関係について思いを致すことから始めるべきである。我々日本人は、自主憲法の制定を怠ってきたがゆえに、今では主体性を持てなくなり、あらゆる決断の裏にはアメリカへの依存心が抜けきらない時代を迎えてしまったとは言えないだろうか。我々は、改憲・護憲の対極の論調にとどまらず、現行憲法のそもそもの生い立ちを考え、これからの国際社会の中で日本が「こう生きる」という姿勢を示すべく、自主憲法の制定に向けて前向きに論じていこうじゃないか。
その上で、憲法についてまず考えるべきは国家と国民の関係である。国家が国民に何をしてくれるかばかりに目が向きがちで、義務が軽んじられている風潮の現代社会だからこそ、国民の自由や権利ばかりを強調する現行憲法に固執しないことを問いかけたい。真に頼られるやさしい国家を実現するため、国民が果たすべき役割は何であるか、すなわち「真の民主国家」のあり方を、改めて考え直す時を迎えたのだ。
さらに、国家を構成する国民が、今を生きている国民だけではないことも忘れてはならない。これまでの時代を築き上げた先人たち、我々の後に続く子どもたちの世代、いずれも日本国の国民である。現在ある豊かな生活は、様々な苦難の時代を乗り越えてきた先人たちのたゆまぬ努力のおかげで存在している。だからこそ、我々は、先人たちへの感謝の気持ちを忘れずに、その歩みを真摯に学び、それを自らの言葉で語り継いでいかなければならない。そのためにも、今日という時代がいかなる歴史を経てつくられたかを十分に学び、日本人の名に恥じぬよう、その遺産を正しく継承する責任があると同時に、将来の子孫たちに恥ずかしくないように身を慎み、負の遺産を残さないようにする義務があることを自覚したい。
国家と国民との関係を考えるにあたっては、今だけを取り上げることのない懐の深い思想を失わないようにしたいものである。