昭和42年9月26日に社団法人横浜青年会議所が設立された当時の設立趣意書。
1951年(昭和26年)の七草も済んで間もなくの頃、当時の横浜商工会議所平沼亮三会頭から今井仙浩専務理事を通して東京JCの会員である渡辺広太郎に会いたい旨の連絡があった。
渡辺広太郎は幼少の頃より平沼亮三会頭には何かと世話になっていた事もあり、何事かと思い、父親に相談の上早速横浜商工会議所に出向いた。
平沼亮三会頭いわく、
『戦災敗戦に引続く市中枢部の接収は市民にとって非常な痛手であり、復興の障害と成っている。今後の復興には青年のカに期待しており、横浜商工会議所においても新たに青年部を作ってはとの話しも出ている。そこで調査研究して来たところ、1年程前に東京に青年商工会議所という団体が出来ていると聞いた。ついては、会員でもある渡辺から詳しい説明が聞きたい』
との事であった。
渡辺広太郎は、JCの目的、設立の動機、JCの歴史、国際機構との関係、そして自身が入会した経緯を述べ、後日規約等の関係書類を今井仙浩専務理事まで届ける事にした。
その後2月中旬、今井仙浩専務理事を訪ねた渡辺広太郎は、今井仙浩専務理事より「横浜にも是非、青年商工会議所(Junior Chamber of Commerceの直訳)を作って欲しい。神戸においても設立の動きがある。横浜は神戸に先がけて作リ上げたいので大至急設立準備にかかって欲しい」と強く要望された。
しかし、渡辺広太郎には横浜の青年実業家についての知識が乏しかったので、横浜商工会議所において設立準備委員会ともいうべきものを招集してもらい、2月24日横浜商工会議所で第1回の顔合せを開いた。そこで渡辺広太郎より東京JCの定款を中心に日本におけるJCの設立状況、JCIとの関係、JCの歴史等の説明があり出席者全員の同意を得て、全員準備委員として準備に取りかかる事に決め、知人友人に呼びかける事にした。
3月2日に第2回、3月12日に第3回の準備委員会を横浜商工会議所において開催し、定款作成委員に渡辺広太郎、甘粕豊太郎、酒井敏男の3名が就任、原案の作成に着手した。
3月16日午後5時より横浜商工会議所において第1回発起人会を開き、活発な意見交換があり、定款案についても十分に話し合われた。発起人会も、3月20日に第2回、3月22日に第3回と回を重ねるに従って内容も整備され総会に提出する各種文案も完成、勧誘先名簿も一段落して総会を待つばかりとなった。そして遂に平沼亮三会頭の希望通り3月29日午後4時より横浜商工会議所において26名の会員出席の下に創立総会を開催し、横浜青年会議所は産声をあげた。
4月17日、午後2時より横浜ビルにおいて発表式が開催され、内山神奈川県知事を始めとする行政首脳部、横浜商工会議所の幹部、米軍関係者等多数の来賓の出席があった。特筆すべきは15名の外国人会員を確保し、国際港都横浜にふさわしい、しかも日本では最初の外国人メンバーを有するJCになったのである。